『希望格差社会』

 『希望格差社会』という本を読んでいたら、すごく気が滅入って、しかも、ちっとも新しくない滅入り方だ。ここ10年、いや少なくとも30年以上前から気づいていて、忘れたふりをしていたことがらへの気の滅入り方という、蒸し返し風の感覚を受けた。
 非対称性ということを中沢新一が、宮澤賢治のお話のなかのテロルとともに語っていたが、同質の内容である。
 ただ、中沢新一宮澤賢治が生命の根っこの根源的な<生-死>から語ることによって、風が吹きぬける森や里の木造の建物の一部屋であるとしたら、『希望格差-』の山田昌弘という著者は(学者であるゆえ)、空調の効いた窓の開かない高層ビルの一室である。
 クールな現状認識は現実のサバイバルに欠かせない。しかしクールな現状認識は、認識の枠組みが何者かに規定されているかもしれない、というメタな疑問をよりはっきり意識させる。
 『希望格差社会』という希望に格差が生じていることを語る本の言説の希望のなさは、社会的な定量性のなかで語られているからだ、とも言える。個々の存在は確率論(蓋然性)ではない、という雑駁な話なのだけれど。
 個々の存在とは個々の身体性にほかならない。個々の身体性は共同幻想に拠っているのだろうが、間隙をついてそのしがらみからすリ抜けることができるような気がするのも幻想だろうか。遠野の山の中で暮らしていると、そっちがリアルなんだよなあ、と言いたくなる部分がある。でも山田昌弘さんという著者は用意周到なので、その辺も、そういう人もありなのだ、というふうにちゃんと言及していたな、そうえいば。
 『希望格差-』の本にはなかったけれど、「地方と都市」というシーンでも希望に関する絶望的な格差は起こっている。つまり「田舎と東京」だ。物騒かもしれないけれどグリーンツーリズムというのは、田舎が都市へ仕掛けた静かなテロかもしれない。なんせ、仕掛け人の張本人であるはずの熊本大学佐藤誠さんは、アンチ・リゾート開発としての武器として持ち出したのだから。
 みずからの意思で、みずからの世界を築きたい(守りたい)、そして愛する人と暮らしたい、ただそれだけの(ある意味)エゴイスティックな希望から発しているのだ。
 でもその佐藤誠教授も、グローバリズムの海の中での航行法を先日、東京でのシンポジウムで説いていた。その通りなのだろうと、思う。
 グローバルとローカルは物量的に圧倒的な差があって、全然対立項ではない。やっぱり非対称的だ。
 東京に行くと感じるのは、都市・農村交流という言葉の虚しさだ、二重の意味で。ひとつは、都市住民のほとんどは農村にまったく関心がない。もうひとつは、農村は都市以上に希望がない社会となっている、というふうに見えている、ということ。
 しかし一方でそれがチャンスともいえる。実は農村は「消費」「食の安全」の文脈でしか見られない都市の人間ではまったく感知することのできない充実や快楽や楽しさを持っているのだ。
 じゃ、希望はだれから奪われている? そして希望はどこに、あるいはだれにある? もう少し行動しよう。