春が来て

『複雑な世界、単純な法則』(マーク・ブキャナン著)という本を読み出している。そのほんのちょっと前に村上龍の『半島を出よ』を読み出している。交互にちょっとずつ空いている時間に読んでいる。そうするとなぜか面白い。どうしてだろう。
 遠野にも例年より少々遅い春が来ていて、例年より1週間以上遅れているがウグイスも初鳴きしたし、ヤナギの類も銀色の芽をはちきれそうにしている。ちょっと下った里では、光の当たり具合では金色に光るようにも見える花が咲く、そう、フクジュソウが土手のそちこちに輝いている。
 『複雑な世界、単純な法則』は、まだ読み始めなので安直なことはいえないのだが、この世界に生起するいろんなことが、ある共通のネットワークパターンを“癖”(というのは、ぼくの独断だが)として持っている、というようなことを言いたいのだろうか、と思いながら読んでいる。
 また『半島に…』は、作家の想像力がリアルな現実を知識的な土台として、どこまで到達できるか、そんな世界のようにも思える。作家のなかにある膨大な知識が、あるときはクラスターとして、あるいときは緩い絆として(『複雑な…』の本の言い回しを借りると)組織化されていくプロセスを単線的に(つまり本として)読むようなそんな感覚を覚えながら読んでいる(ゆっくり遅々としてだけれども)。
 どちらにも共通するものを、仮に、そして強引に読みとろうしたら、秩序−無秩序のあいだのある種のできごと=生命のようなもの、といえばいいか。いや生命にかぎらず、この宇宙の、−やっぱりこういうほうがいいのか科学者ではないものには−、癖、というようなこと。癖は、法則、とも言えるのかもしれないが、ちょっと違う気もする。原理や原則とはちがって、癖はあくまでも癖、というか、原理や原則に還元してしまうとそこには観察・観測できなくなる出来事、というのかな。
 まあ、春が来るということは、生命がいきなり活動しはじめる、というのが東北という場所の特徴で、これは関東以南よりきっと強烈な感じがあると、関東に育った者としては感じている(もっと緯度が高いともっとそういうことがあるのかな)。
 滅びたように(あるいは休眠したように)見える、自然が一気に活動を始めることそのものに、なにかネットワーク的な(つまり、還元した発想にはなじみにくい)出来事が起こっていると考えるのは、的外れだろうか。