高原の季節

tokuyoshi2006-05-23


 今年も高原の季節がやってきた。
 遠野の地形的特徴は、盆地と山の上に広がる気持ちのいい高原。
 高原に限っていえば、初夏から秋までが旬。いろいろな表情を持っている。

 明後日から(だったかな)、グリーンツーリズムに関心を寄せる遠野の市議グループが、福島県会津坂下宮城県鳴子町に研修視察にでかけるという。会津坂下では3ヶ所に分宿して農泊するとのこと。
 遠野には頻繁にグリーンツーリズムをも含めた目的の議員さんたちが遠方から訪れるけれど、遠野から議員さんたちがグリーンツーリズムの視察研修を目的に出かけるのは珍しいか初めてのことではないだろうか。
 いろんな人たちが行ったり来たりするのはいいことなんだし、元をただせば農山村に暮らす人たち同士、今後も付き合いが続く友人知人の関係をつくってくれればこのうえないなあ。
 会津坂下と鳴子のみなさん、よろしく!

はじめての朝

 
 おそらく、東京からやってきた中学生の彼らのほとんどにとって未知の世界。
 おそらく、遠野の民家にとってはじめての修学旅行で来た中学生のゲストたち。
 天気は上々。
 似た経験はあるかもしれないけれど、生徒にとっても、学校にとっても、遠野にとっても、民家にとっても、はじめてづくしの日が始まる、そんな朝。
 みんなが無垢。
 元気な一日のはじまりの朝。

東京からの修学旅行

         
 最近、都会の子供たちは修学旅行で岩手あたりまでやってきてわざわざ田植えをする。しらけるんじゃなかろうか、と心配。いやじゃないだろうか、と不安。
 ところが修学旅行の中学生たちは、驚くことに、雲を突き刺し、青空に突き抜けるようなハイテンションボイスとともに「田植え」という体験に没入している。
 どうしたことか。
 そんなに楽しいのか。
 泥田ではだし。泥田をはだしで歩く。飛んでくる苗をキャッチする。泥が飛び散る。歓声と嬌声。
 裸足で、田んぼのなかに入ることがそんなに嬉しいのか。
 それとも、そういうことを「善き哉」という学校と学級と先生がいるのかな。
 たぶんそういういろいろなことが理由だ。だれか特別な首謀者がいるとは思えない。大きな理由があるとしたら時代かな。何十年という近代化の時代の歯車が、クルッ、て反対まわりになりそうな時期が今なのかも。
 いずれ、一部の心あるおとなたちはそんな仕掛けを、中学3年生の生徒のことを思って、1年生のときから、準備する。偉い。
 でもなぜ、そんなことをするかというと、それを受け止め、感じる若い人(中学生)がいるからだ、きっと。
 おとなはそんなに立派じゃないしね。
 中学生である、とか、社会人である、とか、一見わかったような気になる属性を土台に、考えることを癖にしていたなあ。そういうの、怠けているなあ、と思った。それを知ることができてよかった。
 そういう君たちのあしたは、まじの農家の、まじの労働が待っているよ(の筈だよね)。

ごーるでんうぃーくの過ごし方


 雪が溶けてまもない牧草地からやわらかい草が出てきて、そいつを靴の裏で踏みつけながら、いなかもんも都会もんもみんなでそぞろ気ままに晴れた春の日の山すその道や林のなかを歩く。

彼岸の夕日に寛ぐ

   

 春分の日
 とはいえこんなに風が強いと、外に出るといささか寒くも感じられ、室内にいても山の木々の鳴る音が不穏な気分、落ち着かない気持ちを掻き立てるのは、人ばかりではない。
 そんなときの快適な場所は…。西日の差し込む土間の一角。風も吹き込まないし。
 猫のマツが快適なひなたをテーブルに見つけて寝転べば、じゃおれも、と犬のフウも真似をする。男同士、種の境界を越え、老齢に差し掛かった犬猫の寛ぎの午後三時である。

エコツアー

 暖かい日々に慣れはじめていたとき、吹雪がおとずれた。エコツアーはそんな月曜日の朝だった。
 東北ツーリズム大学3月講座の最終日、みんなで象坪山に登り、野崎橋を経由して、デンデラ野に向かった。
 歩くこと、車の通らない(通れない)道を行くこと、そういう気持ちよさってあるよなあ。
 車が通らない道は、「遠野物語」の旧街道でもあり、百年近く前という、ついこのあいだのことを目撃している樹木に挨拶しながら歩く、ということでもある。
 そんな道のたいていは馬も歩ける。
 人が歩く。馬が歩く。
 そのような山すそは心地よい。